君はギリヤーク尼ケ崎を見たか

「路上」って自由を象徴するもののように思えるのは僕だけだろうか。この感覚にケルアックの小説の影響があることは私自身も完全に認めるところではあるが、でも、何だろうか?、その公共性100パーセントの場において自由であるって、至高の自由であるようで、カッコいい(至高の自由って何?苦笑い)。
恥ずかしながらそのテレビ番組を見るまで私はギリヤーク尼ケ崎という人物を知らなかった。僕が初めて知った彼は、すでに86歳になっており、パーキンソン病に侵され、踊りをもとに構成された彼の体は不自由で、見ていてい心苦しかった。それでも彼は不自由な体で、自由に踊ろうとし、不自由に苛まれ、自由に必死でしがみ付いた。体は動かなかったが、彼の想いは私の心を動かした、それは確実に。鬼気迫る想い、私はギリヤーク尼ケ崎の魂を見た。86歳、思い通りに動かぬ体で表現される踊りは、目を覆うほどに切なかったが、彼の魂は路上を軽やかに踊り、私たちをとらえて離さなかった。私はその時テレビ画面の前にいて胡坐をかいていたが、私はその時、確かに路上にいておひねりを一つ彼に向けて放っていた。
それは路上から生まれた・・・・って言葉ってかっこいいとずっとずっと昔から思っていたけれど、ギリヤーク尼ケ崎の場合は、彼自身が路上から生まれてきたんではないだろうかと思ってしまった、これは比喩としてではなくて、物理的に路上のそのアスファルトを割って、ミシミシとそしてニョキニョキと、彼自身が生まれ出てくる姿を私は見たような気がした。
「人生にはロマンが必要なの」と彼は言った。ロマンなんて今の世の中には大方必要のないもののように思える。それでも彼はハッキリとロマンが必要だと言った。86歳の、パーキンソン病で肉体の自由にかなりの制約のある男がハッキリと。自由な体を持ちながら、かなりの制約を持つ私も、ロマンは人生に絶対的に必要と思った。そのような人種であり続けたいとも。