騎士団長殺しは一体誰が読んでいるんだろうか?
先日発売された村上春樹の「騎士団長殺し」は当然話題で、すでに何十万部、「1Q84」を超える売れ行きで、僕も持ってはいるけれど、間もなく到達するであろう百万部も、その百万人はどこにいるのだろう、僕の周りで「騎士団長殺し」を読んでいるものはいない。確かに「あなたは騎士団長殺しを読んでいますか?」と聞いて回ったわけではない。それでも誰かが読んでいるシーンとか、たまたま伺った場所で無造作に放置されている「騎士団長殺し」に出会ってもいいのではないだろうか。この間実家に立ち寄った時に高校生の姪っ子が二人いて(一人は南側の進学校3年生一人は北側の進学校1年生)、さすがに彼女達の周辺には「騎士団長殺し」を読んでいているものがおるだろうと思い聞いては見たが、彼女たちの反応は「何その変な名前?」的な反応でやはりここでも「騎士団長殺し」のしっぽを掴むことはできなかった。やれやれ「騎士団長殺し」の刻むこの記録的数値はまるで村上春樹の小説のように僕を霧で包み込み続けるつもりらしい。
伊坂さんの話の中で昔読んだ「数値」もまた霧の中だったことを思い出す。
例えば大きな大きなそれは大きな新聞紙があったとしての話。新聞紙の厚さを0.1ミリメートルと考え(大体それくらいでしょう)それを一度半分に折りたたむ。そうすると厚みは0.2ミリメートルになる。もう半分に折りたたむ。そうすると厚みは0.4ミリメートルになる。次に三回目、また半分に折りたたみ厚みは0.8ミリメートルに。これを25回繰り返したとき厚みはどれくらいになると思いますか。とんでもない数値です・・・と言っても大抵の人は1メートルとか3メートルとか答えるのが常、しかし実際は(実際はそんな行為無理ですが)なんと、計算機を叩いてもらえば分かりますが、25回折りたたむだけで、なんと(もうすでにテレビショッピングのようですが)、なんとですよ、世界遺産あの富士山よりも高くなるのです。
「騎士団長殺し」・富士より高い・新聞紙かな
君はギリヤーク尼ケ崎を見たか
「路上」って自由を象徴するもののように思えるのは僕だけだろうか。この感覚にケルアックの小説の影響があることは私自身も完全に認めるところではあるが、でも、何だろうか?、その公共性100パーセントの場において自由であるって、至高の自由であるようで、カッコいい(至高の自由って何?苦笑い)。
恥ずかしながらそのテレビ番組を見るまで私はギリヤーク尼ケ崎という人物を知らなかった。僕が初めて知った彼は、すでに86歳になっており、パーキンソン病に侵され、踊りをもとに構成された彼の体は不自由で、見ていてい心苦しかった。それでも彼は不自由な体で、自由に踊ろうとし、不自由に苛まれ、自由に必死でしがみ付いた。体は動かなかったが、彼の想いは私の心を動かした、それは確実に。鬼気迫る想い、私はギリヤーク尼ケ崎の魂を見た。86歳、思い通りに動かぬ体で表現される踊りは、目を覆うほどに切なかったが、彼の魂は路上を軽やかに踊り、私たちをとらえて離さなかった。私はその時テレビ画面の前にいて胡坐をかいていたが、私はその時、確かに路上にいておひねりを一つ彼に向けて放っていた。
それは路上から生まれた・・・・って言葉ってかっこいいとずっとずっと昔から思っていたけれど、ギリヤーク尼ケ崎の場合は、彼自身が路上から生まれてきたんではないだろうかと思ってしまった、これは比喩としてではなくて、物理的に路上のそのアスファルトを割って、ミシミシとそしてニョキニョキと、彼自身が生まれ出てくる姿を私は見たような気がした。
「人生にはロマンが必要なの」と彼は言った。ロマンなんて今の世の中には大方必要のないもののように思える。それでも彼はハッキリとロマンが必要だと言った。86歳の、パーキンソン病で肉体の自由にかなりの制約のある男がハッキリと。自由な体を持ちながら、かなりの制約を持つ私も、ロマンは人生に絶対的に必要と思った。そのような人種であり続けたいとも。
部下へ一つだけ願うこと
ブルーハーツって知ってますかね?そのヴォーカルとギターが、甲本ヒロトと真島ですが知ってますか?その後ハイロウズというバンドを結成し今現在はクロマニヨンズというバンドをやっています。私は彼らのバンドが好きで、好きになってもう30年になりますが今も変わらず好きで年一回は彼らのライブを観に行っています。その彼らの曲に、厳密にはヒロトの曲ですけれども「キスまでいける」という曲があるんです。その曲の歌詞、ちょっとキスとは関係ないんですけれども、その歌詞ですね、いいですか、
雲は浮かんで ただ浮かんでいた
僕らは違った 僕らは飛んでいた
風とは別の方向へ 翼よ あれがパリの灯だ
という歌詞があるんです。もう一度言います。
雲は浮かんで ただ浮かんでいた
僕らは違った 僕らは飛んでいた
風とは別の方向へ 翼よ あれがパリの灯だ
という歌詞です。どうっすかね?もちろん私がここで述べているということは仕事のことで述べているんですけれども、例えばですね、うちの会社にもどこかの営業所に、分からないですけれどもこの営業所にも、雲のようにただ浮かんでいるだけの作業員がいるかもしれない、雲のようにただ浮かんでいるだけの事務員さんがいるかもしれない、いて欲しくはないけれども雲のように浮かんでただなんとなく流されてるだけの所長様もいるかもしれない。いや、間違いなくどこかには、あるいはあちらこちらに、いると思う分けです。私はですね、自分で飛んでいたいと思う分け、自分で飛んでいたい、それは自分の意志で、自分の発想力で、自分の決断力で、自分の行動力で、なんとなくの風に抗い私は自分で飛んでいたい、そして自分の目指すパリの灯へと到達したいと思い日々そのように考え行為しているつもりです。まあ、サラリーマンなので、会社の風と別の方向へ行こうとは考えませんが、会社が間違っていると思えば意見を呈し調整を図りたい。雲のようにただなんとなく浮んでいるだけではなくて自分で飛んでいたい。
それで何を言いたいかというと「みんなも飛べよ」ということではないんです。「みんなも飛べよ」とは私は言わない。それは人それぞれだからです。なんとなく浮んでいるだけのほうが幸せの人もいると思うし、まあ与えられた仕事をこなしていることは大前提ですけれども、その辺の感覚は人それぞれだと思うので飛ぶことを押し付けることは必ずしもその人を良いほうへ導くとは思わないわけ。それで、何を言いたいかというと、とりあえずこの話は置いといて・・・・我々は日々の大半をこの職場で過ごしているわけれだけれども、その長き時間を注いでいる仕事に、やりがいを感じたほうが良いか、感じないほうが良いか、となった時、これはまず間違いなく感じたほうが良いと言い切れると思います。まあ、中にはやりがいなんてウザいとかいうへそ曲がりもいるかもしれませんが、本音の根底の部分ではとりあえず100パーセントやりがいを感じたほうが良いでいいのではないかと思うんです。そして私が言いたいのは、やりがいを感じるためには「飛んだほうが良いんじゃないか」ということなんです。100パーセントのもののために「飛んだほうがいいんじゃないか」と。自分で考え、自分で発案し、自分で行動して。
なぜこんな話をするかというと・・・私が一つだけ願っていることがあるんです。皆さんに対して一つだけ。それは自分は頑張っているんだと胸を張って欲しいということです。愛する家族に、愛する人に対して自分の頑張りを誇って欲しいと。みんなが日々頑張っているのは私が一番分かっているわけ、みんなが朝から晩まで毎日毎日頑張っているのを一番知っているのは私たちだと思うんです。この仕事を誇れるのであれば一番素晴らしいだろうけれども、もしかしたら「このクソ会社」なんて思っている人もいるかもしれない、それはそれで仕方がないことかもしれないある程度は、でも、仕事を誇れなくても、自分の頑張りを誇って欲しい、愛する人に対して俺は頑張っているんだと胸を張って欲しい、やりがいを感じられたらそれはそのまま素直に誇れると思う分けです。そのためには飛んだほうがいいんじゃないかと、私のささやかな、そしてかけがえのない願いです。
我々の結論「劣化」
秋頃友達三人と呑みに行った時の話。友達の内訳は・・・一人は市内に何店舗も出店するスーパーの取締役。一人は定職にはつかずにネットで何かをやってみたり(何かは不明だが)たくさんの免許を持っているので方々に手伝いに出かけたりしている自由人。一人は長距離トラックの運転手。そして僕。
呑みだして間もなく取締役が言った「最近ホリエモンが面白い」と。「彼の発言がすごい」とも。そしたらすぐに自由人が反応した「俺も前から注目してた。あいつはすげぇよ」と。そして僕も告白した「今ちょうどホリエモンの本読んでて3冊目なんだ」。長距離運転手だけがポカンとしていた。多分彼にはホリエモンのイメージとしては、ワイドショーを賑わせていた頃のイメージしかなかったのだろうと思う。金の亡者とか、生意気な感じの嫌な奴的な、そういうイメージを持っている人はまだかなりいるんだと思う。
まあ、それで盛り上がったわけであるけれども、その中でも議論になったワードがあって、もちろんホリエモンが言ったものであるが・・・それは、
「去年と同じっていうことは去年と同じっていうことではない」
というものだった。村上春樹の「説明しなければ分からないということは説明してもわからないということだ」を思い出してしまう、まるで禅問答のようだ。そしてさらにホリエモンはこのように続ける。
「去年と同じっていうことは劣化しているっていうことだ」
「劣化」とはまさに強烈。せめて「退化」にして欲しかったが、「劣化」というところがホリエモンならではの真実を指し示すものだと思う(ただしこの言葉も私の記憶の中の言葉で、少々間違っているかもしれません)。
我々の結論としては、例えば一年前とまったく同じだけの仕事が出来たとして(新たに覚えたりやれるようになったりしたことはないが、やれなくなったことも速度等の衰えもない)それはその仕事において一年前とまったく同じ自分であり、進化も退化もない変わりない自分であると言えたがしかし、その一年の間に社会は進んでおり、世間は進んでおり、同僚は進んでおり、先輩は進んでおり、後輩は進んでおり、同業他社は進んでおり、友達は進んでおり、恋人は進んでおり、息子たちは進んでおり、時間は進んでいるわけで、そこに属している自分だけが進んでいなければそれは退化していると言えると至った。それは劣ってしまっていると、つまりは社会から、世間から、劣化してしまったと。
ただし、我々がこのワードを議論の題材としたのは、これをホリエモンが言ったことが不思議だ(彼の主義的にということだった)と言った友達と、ホリエモンらしいと言った友達があったからだ。
深夜我々は締めのラーメンを啜って家路についた。僕は頭の中で何度もこの言葉を啜っていた。
サッカーで例えるならメッシ
那須川天心が左ボディブローでアムナットを4回KОに葬った。これにてキックの戦績が18戦18勝14KО。
この戦績、ボクシングであれば日本でも強い選手に時折見る戦績ではあるが、キックボクシングとなると少々事情が違ってくる。18連続勝利がまずあり得ない。うち14KОもキックでは異常なKО率である。キックは3ラウンド制か5ラウンド制しかなく、とりあえずラウンドが短いと。そしてキックがある分間合いが遠くなる。飛距離の長い武器はそのまま最大の防御ともなり得る。逃げられたら捕らえるのは難しい。ボクシングと比べて武器が多い分、ローキックなどで様子を見ながら(図りながら)ゆるりと始まるパターンが多いように思う。いくら強くとも、かみ合う前に3ラウンドあるいは5ラウンドが終わってしまい判定負けなども起こりやすいと言える。上記の理由からKОも出にくい。それでいてこの戦績。う〜む、那須川天心のすごさ・・うまく伝えられん・・・。
サッカーで例えるなら「本田」ではないわけですよ。海外でも活躍する日本人、という枠では決してないわけ。サッカーで例えるならそれはもう「メッシ」。世界のトップ中のトップ、その中でも異次元を行く選手。過去のすべてのスーパースターをも飛び越えて史上最高となるかもしれない、そんな可能性を秘めていると思う。今日の対戦相手のアムナットなんてボクシングの才能の塊みたいな井岡に唯一黒星を付けた選手です(アムナットのコンディションはどうかは?ですが)。そいつを18歳がパンチで、しかもボディブローでKОですからね。本当に那須川大注目です。ロマゴンとは那須川がやりますか(笑)
クロマニヨンズの「JUNCLE9」が鳴り響いている
クロマニヨンズ9枚目のオリジナルアルバムの評価はどうなんだろうか。評価って言うのは違うか(苦笑)、好きな人多いのかな、微妙な人多いのかな。周辺では良いと声が上がっており、僕は初めは微妙かなと思っていたけれど・・・イイっすねって感じです。
「生活」は悪くはないけれど、1曲目としては物足りない感じが(飽きちゃう感じかな1曲目としては)。ヒロト、いつもと違う感じで入ったか〜と思った(曲は真島だが曲順はヒロトが決めておるようです)。「やる人」の歌詞、歌詞カード見ずに聴いていた時は「地球が現れて」だと思っていた出だし、だってそのあとの歌詞が「偉人や有名人だけが〜」なもので。「太陽より熱い」ものは物理的にはないので、もう人の心とか生き様とかしかないでしょう。愛とか(笑)。
そして多分人気のあるだろう「夜行性ヒトリ」へ。カッコいい。歌詞の意味がよく分からないがカッコいいことだけは分かる。それだけで十分だろう。
「這う」は恐い。ゲゲゲの鬼太郎とか思い出すし、なんかそんな昼なのに暗いイメージ。でも、これは多分僕らの日常の事なんだろうね。
「生きてる人間」もチョット飽きますなぁ。そして「エルビス(仮)」へ。とりあえず(仮)って何?「無法者が昨日、文明蹴飛ばした」だと思って聴いていた俺。無法者だったら文明を蹴飛ばした方がカッコイイかもと思う僕。歌詞カードでは「運命」でした。これは「イスラム国」のことがあっての曲かな?そしてエルビスはエルビスのことかな?「麻薬か呼吸困難に」の人かな?「雷雨決行」が大好きな僕は、この曲もどこか被り好きなんだけど、サビがもう少しと思ってしまうし、けれどもこれでイイのかもとも思ってしまったりして・・・。
「俺のモロニー」は「俺の物に〜」ですか?クエスチョンマークが多過ぎるこのページは、歌詞がもう分からな過ぎる・・・が、カッコいいことだけは分かる、それで十分な気もするが、それでも考えてしまう俺は、そして僕は、ナンセンスであり、ナンセンスであり続ける僕は、それこそ僕なのかもしれない俺。
この後の二曲も悪くはない。
そして「ボラとロック」へ。・・・ドラクエ世代の僕は、この使い回しが好きなんです、「そして伝説へ」ね。
バナナボートと銀の月そしてボラとロックってことかな。いつでもどこでもどんな時代でもどんな現実でも、ボラとロックが共にあり、ボラは無敵なんだろうね。僕もいつも思っておりました、僕にはどんな時でも詩があり、どこに行ってもロックが寄り添ってくれて、そして後は君がいてくれたらなぁと。
「中1とか中2」は大したことのない歌詞に、大したことのないあの頃の日常が散りばめられていて途轍もない切なさがあります。切なさというか郷愁というか。
今夜ロックンロールに殺されたいのは何も君だけではない。このタイトルだけでもう十分でしょう。歌なんか聴かなくったてイイくらい、もう、今夜ロックンロールに殺されたい・・・のは僕だけでもないはず。重ねて言うけどこれはタイトルだけで十分でしょう。それだけでもう伝わる。それだけでもう十分。重ね重ねシツコイ位に、今夜ロックンロールに殺されたいのは、このタイトルだけで頷けることは、もう、これこそ幸福なんじゃないっすか。
その時僕は六列目にいたけれど、その時僕はどこにいたんだろうか?
先日クロマニヨンズのライブに行った。入場番号92番のチケットを握りしめライブイン。何列目って言う話であれば、六列目位だっただろうかな。あの会場では常にポジションが移動するため、一列目以外はもうはっきりと何列目で観ましたとは言い切れない状態で、まぁ、スゴイっすね・・・何がって、参戦しなければ分からない興奮や、苦しさや、苦しさが。そして苦しさが(笑)。先日の美里ライブと同じ会場だったんだけど、まるで違う顔を見せるライブハウス。ヒロトのトークはいつもに比べたらイマイチだったけど、ロックンロールは相変わらず全開で、良かった。
確かに良かった、だが、残念ながら観ている方の僕が良くなく、中学生や高校生の頃にブルーハーツを観に行った頃のようにはノリ切れず、ライブ会場を見つめる傍観者のような僕・・・六列目にいて。
僕はここではなくて、六列目ではなくて、そちらにいたかった人間であったんだその昔、そのことなのかなぁ、理由は、自分でも良く分からないけど、未練タラタラなのかな、その夢は大分昔に完全に諦めたのに。
「僕は未練というものを重要視している」
若かりし頃の僕自身の言葉です。未練というのは心の本当の声であるからね。でも、せっかくライブ行ってんだから心からノリ切りたいというのが本音です。でも、もう一度でもいいからステージ立って、ロックして、頭振って、舌出して、ワケ分かんなくなってみたいっすね〜。