初めから無いのと、失うことは違う

今日京都で、登校中の小学生の列に軽自動車が突っ込む事故があった。それを聞いて最初、この間の花見の中に突っ込んだ事故の模倣犯か?と思ったが、それはすぐに違うことが分かった。運転していたのは18才の少年、同乗者が同じく18才の少年2名とのこと。無免許運転で夜通し乗り回していたらしい。それで朝、登校中の小学生の列に突っ込んだと。女の子が一人、登校に連れ添っていたその母が一人亡くなった。しかも母親は妊娠していたとのこと。・・・・・旦那は今どうしているだろうか。妻と、娘と、生まれてくるはずだった赤ちゃんを不合理に失い、彼にはもう何も残されていないと思う。例え、仕事が残り、貯金が残り、友達が残り、家が残ったとしても、彼には何一つ残っていないことと一緒だろう。切なすぎる。切なささえも枯れ果てて、失われてしまったことだろう。初めから何もないことと、失われて何もないことは違う。人は失われたことには耐えられない。僕にも嫁と子供がいるから、見ず知らずその旦那さんのことが気になる。
山口県光市の事件も悲しみは頂点だっただろう。モトムラさんは最後まで極刑を求め続け、不可能と思われた極刑を勝ち取った。それまでの裁判では基本的に、三人殺したのでは無期懲役、死刑は四人から、と言った基準があった。いわゆる永山基準だ。光市の事件で殺されたのは二人。まさにモトムラさんの執念が勝ったと言える。ただ、今のモトムラさんを見ていると、人は空っぽからでも立ち上がるんだなぁとも思う。その裁判を生きる糧にしてなんとかかんとか生き延びて来たのかもしれないが、現在の彼は威風堂々としていて、チョットカッコいいくらいだ。彼なんか初め、容疑者として扱われたりもしたほどだった。

京都の旦那さんにも、モトムラさんのように元気になれる日が来ることを心から願っています。