社会という名の歯車の良き部品であるべき僕

人、犬、豚、猫、牛、鳥。人だけがもう一つ呼び方がある。「人間」。
人間というのは中国では、世間という意味合いもあるらしい。人が世間の中に身をおいて人間。社会の一員で人間、ということか。確かに人間は一人では生きられない。社会の中に身をおかなければ生きていけない。裸で街を歩けば公然わいせつ罪で御用となるし、服を着ればその服は資本主義が作り出したものである。
義務教育とは良き社会を作るための教育だ。社会を歯車と捉えて、その歯車の良き部品を作るための教育。
村上春樹の小説が語っている(ねじまきか、ワンダーランドだったか)。訓練なんだよ、と。・・・・何のことかと言うと、例えば関数とかなんたら方程式とか、社会に出てから使わないことって義務教育の中に溢れている。子供の頃一度はした会話「こんなの一生つかわねえし」。ならばなぜ学ぶのか。・・・・それが訓練であると。社会に出ると次から次へと新しいことを覚えていかなければならない。やっと覚えたかと思ったら新しい商品が開発されまた一から覚え直さなければならなかったり、転職すればまた一年生だし、そこで覚えられなければ挫折してしまうことにもなる。だから子供の内から新しいことを覚え、また新しいことを覚え、そして次なる新しきことを覚えそれに順応していく。まるでキャッチボール何度も何度も繰り返すように。何回も何万回もシュート練習をするように。義務教育のそれもまた訓練であると。関数を覚えることが目的ではなく、それを覚え自分の知識にしていく、そのことの訓練が目的であると。

村上春樹の小説の主人公が、恋人の兄綿谷ノボルに「どうせ君の頭の中にあるものなんてガラクタや石ころばかりじゃないか」と言われた時、僕は自分が言われたような気がしてハッとした。その時の僕は、仕事もなく、恋人もなく、手に職もなく、なんら免許や資格もなかった・・・・それなのに毎日毎日夢のことばかりを考え、一円にもならない詩を日々綴っていた。