長男、3DSを買う

今日も五時過ぎに起き雪投げ、その後休日出社昼まで仕事で、帰宅後今度は屋根の雪下ろし、大体三時前には屋根を下りた。それにしてもすごい雪だった。がちがちに凍っていて固くて手こずった。明日は休みだ。
四時頃、なんとなく気が向いて長男が前から欲しがっていた3DSを買うことに。近くの何でも店まで行ってコバルトブルー色?の3DSとマリオランドを購入した。長男はまだ3歳で、マリオランドをやらせてみてもほとんどテキトウな操作で、一面もクリアできなかった。それでも喜んでいるのでまあいいかなと。

長男の名前は「時の真を生きる」と書く。意味は・・・・。
僕は二十歳の時、秋田県一忙しい二十歳を自称していた。自分で自分自身を忙しくして過ごした。当時勤めていた酒屋の仕事も忙しかったし(年間休日数は50日ほどしかなかった)、仕事後バンドの練習を週に3回(火、金、土)、バレーボールの集合日が週1回(木)、空いているのその他全ての時間を自分成長の時間に費やそうとした。
世の中の支配者は「時間」だと思っていた。支配者に負けてはいけないとも。やりたいことが多すぎ、時間は容赦なく過ぎた。山田かまちが「僕には24時間じゃ足りないんだ」といった意味が僕には痛いほどに分かったし、当時の僕の言葉で言えば「1日48時間欲しいし、体も3つも4つも欲しいんだ」となる。時間と言う支配者に負けぬように、無駄な時間を皆無にしようとした。
僕が無駄じゃないと認知する時間は、詩を書く時間、小説を書く時間を筆頭に、曲を作る時間、小説を読む時間、ギターの練習時間、写真を撮る時間、絵を描く時間となっていた(全て自分の尺度です)。友達と遊んでいても、詩を書くためによく突然帰った。そしてここに挙げた時間に続く無駄じゃないとされる時間が、映画観賞だった。だがこの頃映画を見ていても時間ばかりが気になり最後まで映画を観切るのが難しいくらいにまでなっていた。時間を無駄にしたくないと、この映画に2時間も時間を費やすのは無駄ではと、よく途中で観るのを辞めノートに向かったりした。時間を大切にしたつもりだった。
けれども、結局は一番自分こそが時間に支配されているではないかと。そのことに気付いた時、「ああ、時の真を生きて欲しい」となぜか未来の子供のことを思ったのだった。そして十年ほどの時間が流れ、初めて生まれた子供にそのように名前を付けたのだ。