立嶋篤史という生き方

僕が高校生の頃、格闘技ムーブメントがすぐそこまで来ていて、もう爆発寸前だった。WOWOWでは月一のペースでリングスが放送され、空手界を席巻していた正道会館がそこに乗り込んで来て、夢のような対戦が次々と実現した。K−1が本格的に始まるともう勢いは止まらず、ジャニーズとばかり騒いでいた女の子達まで格闘技を観るようになった。
そんな中一人のキックボクサーが、K−1やリングスを敵に回して、毒と気を吐いていた。立嶋篤史。僕が大好きな、たまらなく大好きなキックボクサーだ。彼のインタビュー記事は最高に面白かった。彼は対戦相手がいくら年上だろうと、敵だからと敬称は付けなかった。彼は21歳で高校を卒業した。彼は辰吉丈一郎松本人志チャップリンの映画が好きだった。彼はキックボクシング界初の年棒選手となった(1200万、プロ野球とでは比較にならない安さだが、キックボクサーとしてはかなりの、かなり過ぎる額だった。しかし、その後の彼の著書で、実際は1200万の半分も貰っていなかったことが判明。キックボクシング界の実状はそれは酷いものだった)。彼は気難しかった。彼は30敗くらいはしていた。彼はヒジとローキックが得意だった。彼はワイクーに日本刀で斬るアクションを取り入れていた。彼はインタビュアーが「頑張ってください」と言うと、「別にヘンな意味じゃないけど頑張れって言われなくても頑張ります、自分の人生ですから」と言った。彼は佐藤孝也に負けた夜、僕が「頑張ってください」と言うと「何を頑張ればいいのか分からないよ」と言った。彼は常に生意気だった。彼は常に彼らしかった。彼は交通事故にあった。彼は泥棒に入られ、そいつをとっ捕まえて久々にメディアに登場した。彼はレイジングホースと呼ばれた。彼は地上最強の高校生と名付けられた(名付け親はサダハルンバ谷川だ)。彼は挑戦という言葉が好きだった。彼は息子にイドムと名付けた。彼は黒色のトランクスが実によく似合った。彼は一度フルヌードのポスターを大会用に撮影したことがあった。彼は今も現役だ。全盛期には勝ち続けたりもしたが、今では勝ったり負けたり、どちらかと言うと負ける方が多い。それでも彼はリングに上がり続ける。ロッカーがロックするように、キックボクサーはキックボクシングをする。当たり前のことかもしれない。そして、彼がそのようにあるのも、当たり前のことかもしれない。