切腹で本当は何を切ろうとしたのか

このブログは僕の記憶だけで書かれており、正確ではない部分もあるかもしれない。調べればすぐに分かる詳細も、調べずに記憶のままに書いている。今日は三島事件について、少し語ってみたいと思う。もちろん正確ではないかもしれない・・・・僕の記憶の中の三島事件だ。

1970年11月25日。三島はその朝、編集者に9時30分に原稿を取りに来るように告げていた。大長編豊饒の海四部作の最終原稿だった。しかし編集者は所用から15分の遅刻をしてしまう。すると家政婦が出てきて、三島は9時15分にはもう家を出られたとのこと。編集者は「変だな」と思う。三島はいつも原稿を自分の手で渡した。それなのに9時30分に来いと言いながら、その15分前に出かけたことになる。三島は初めから編集者に会わないつもりだった。
三島が出かけたのは自衛隊の市ヶ谷駐屯地。三島は結成していた盾の会のメンバー4名を引き連れて、知人である総監の下を訪れていた。名刀が手に入りそれを見せるという名目であった。総監室に通されると、そのまま総監を監禁。三島がバルコニーに出て自衛隊員をバルコニー下に集めさせる。三島他盾の会のメンバーはクーデターを企てており、三島がそこで演説をうつ。しかし自衛隊員からは失笑が漏れ野次が飛んだという。三島は「武士はいないのか」という言葉を残し、総監室の中に戻る。そして切腹介錯は盾の会のメンバー森田必勝が行った。なかなか首は切れなかったという。その森田も切腹。翌朝の新聞に三島の生首が載った。
毎年ノーベル文学賞候補になっていて世界的にも有名だった三島の暴挙に、世界中が日本を不気味がったという。まだそんなことが現実にあるのか、と。
右派だけではなく、左派の中にも先を越されたと悔しがったものがいたという(三島は右だった)。
もちろん意図的なものであろうが、三島の遺作となった豊饒の海は、輪廻転生の物語だった。