K−1の始まり

1993年5月30日代々木第二体育館で第一回のKー1グランプリが開催された(日付場所等僕の記憶であるため間違っているかもしれない、もちろん)。Fー1のように世界的なメジャー競技にしたいという願いが込められ、空手、キックボクシング、カンフー、拳法、ケンカ、それらの頭文字が全てKで始まることからKー1となった。競技的にはキックボクシングであったが、いずれこの競技を誰もがKー1と呼ぶようになる。その始まりを知る人は意外と少ないのではないだろうか。

Kー1の少し前、ヘビー級のキック界ではモーリススミスが絶対王者として君臨していた。何と八年間負けなし。キックはオランダが世界的にも一番盛んであるが、最強の刺客として登場したオランダの雄ピータースミットも、日本武道館においてあえなく撃沈していた。そのスミスに黒星を付けたのが、弱冠二十歳のピーターアーツだった。世代交代か、いやいや次やればスミスだと両方の声。久しぶりにキック界がほんの少しだけ盛り上がりかけていた。と同時期日本では正道会館と言う空手団体が、空手界の王様として君臨していた極真空手に勝負を挑みだして、結構な正道会館ブームが沸き起こっていた。その中心にいたのが館長の石井和義佐竹雅昭だった。その後格闘技オリンピックと銘打たれた大会を次々と成功させた石井は、次なる大会としてビックプランを打ち立てた。これがKー1グランプリだった。世界中のこの競技のチャンピオンを集め、8人によるワンナイトのトーナメントを行う、賞金は10万ドルと。まだマイナーだった格闘技界において、一夜にして10万ドルとは夢のような金額だった。それに、キックボクシングは1日ワンマッチが基本であり、トーナメントとはいかにも空手ならではの発想で格闘技界を仰天させた。
そこに名前の挙がったメンバーが凄かった。とりあえずとしてすぐに4人の名前が発表された。まずは佐竹雅昭。日本のエースとして名前がもちろん挙げられた(当時はまだ日本人エースがいないと興行として成立しなかった時代だ)。そして最強モーリススミス。そのスミスを破った次世代の英雄ピーターアーツ。そしてもう一人がスタンザマン。マンは日本では無名であったが、キックのタイトル6冠、キック界のマイクタイソンという触れ込みで、これは強いだろうなと。これは大変なことになったと当時高校生であった僕は、興奮が頂点に達した。そして次なる興味は残りの4人は誰なのかということ。少しして5人目が発表される。最強ムエタイから不参加はないだろうという理由の下、日本でもお馴染であったチャンプアゲッソンリットの名前が挙がった。僕のテンションは少々下がった。と言うのもチャンプアはもちろん強かったが、ヘビー級と言うよりはミドル級チョイ上くらいのクラスだったからだ。でもまあセーフかなぁと。残りの3人が凄いんじゃないか、と。けれども残りの3人は聞いたこともない完全にアウトな3人で、僕はかなりガッカリした。
それでも佐竹、スミス、アーツ、キックのタイソンが出てトーナメントだ、と思うとやはり心が躍るのだった。しかしこれらの心情の流れが、大会の日見事に(それは日本中が目を疑うほどに見事に)吹っ飛ばされる。
とりあえず日本で、スタンザマンの強さを知ってもらい大会への興味を高めるために、三月にマンの試合が後楽園ホールで組まれた。対戦したのは正道会館の二番手であった後川。マンのあっという間の勝利で、マン対スミス、マン対アーツの興味を引きたいというシナリオだったと思う。けれども事実は後川大善戦、マンを何度もぐらつかせ、マンが勝つは勝ったがマンの株は下がりしかも負傷してしまった。大会直前マンの代わりに後川が出場となる。
左側のブロックに佐竹、右側のブロックにスミスとアーツ、決勝で佐竹対スミス、もしくは佐竹対アーツ、これが石井の書いたシナリオだたっだろう。けれどもシナリオはすぐに崩れ、誰にも書けはしない物語を生む。一回戦佐竹は順当にヘイズをローキックでKO(最後はパンチ)。一回戦二試合目日本では有名だったチャンプアが敗れるも、体重差かなぁとまだ誰も魔物の存在に気付かない。一回戦三試合目スミスが後川に勝利。後川はマン戦に続いて大善戦で後川株は急上昇となる。そして一回戦四試合目、等々魔物が顔を出す。なんとアーツが判定負け。誰もがスミス対アーツを見たがっていた為、会場からは大きなため息が漏れた。
こうなったら大会が盛り上がるためには、佐竹とスミスの決勝で佐竹に優勝してもらうしかない、石井はそう思ったんじゃないかな。けれどもなんと、ここでKー1の魔物が大きな口を開ける。佐竹がワンパンチで吹っ飛ばされそのまま起き上がれなかった。続いて準決勝第二試合ではスミスがハイキック一発で意識を失う。今まで見たハイキックの中でも№1のそれは見事なハイキックだった。
そして決勝のリングに上がったのは、日本ではまったくの無名、格闘技マニアとも言えるほどの僕ですら知らなかった二人だった。一人はクロアチアのブランコシカテック。もう一人はオランダのアーネストホースト。Kー1の未来は逆に何かがあるんじゃないかと思わせる決勝の組み合わせだった。
ちなみに当時秋田でのテレビ放送はなかった。テレ東かなんかで深夜にこみっと放送されたはずだ。僕はそれを東京の親戚に録画してもらい送ってもらった。