誰からも愛されないという自由

数年前、失恋し一人ぼっちになった時、僕は枡野浩一の短歌ばかりを読んでいた。小説を読む気にはとてもなれなかった。集中出来なかったのだ。詩はなんとか読むことが出来たが、それでさえ長過ぎたと言えた。僕の失恋時の集中力は、短歌でイイ所だった。
常にとなりにいた人を失うとは、実に辛いことだった。人を失う、これほど辛いことはないだろう。僕は枡野浩一の短歌を読んだ。胸を切り刻むように読んだ。
そんな中でも僕の胸を強く刻んだ短歌がある。もちろん枡野浩一の短歌である。

 「誰からも
     愛されないということの
              自由気ままを誇りつつ咲け」

それは確かな自由だった。愛されるとは、いくらかの呵責が出来るだろう。これとは別にその当時、僕が心の中で念仏のように唱えた言葉。魚武の言葉だ。
 
 「俺様は自由だぜ」

僕は何度も何度も唱え繰り返した。
不思議と勇気が沸いた。
なんでもやれそうな気がした。

 「俺様は自由だ」

勇気が沸いて来た。自由気ままを誇りつつ咲けそうな気がして来た。

そんな僕も、素敵な女性と出会い、恋に落ちて、結婚をして、子供が出来て(それも二人もだ)、家を建て(35年ローンだ、まいったか)、職場でも重職を与えられ、そしてビールを呑みながら、こんな文章を書いている。・・・・僕は自由だろうか、それとも不自由だろうか。あの頃誇った「誰からも愛されていないと言う自由気まま」は咲いたんだろうか、それとも枯れたんだろうか。どっちでもいいよな気もするし、ハッキリと誰かに非難されたいところもある。

とりあえず僕は、今日久しぶりに枡野浩一の短歌集を本棚より引っ張り出して来て読んだ。ビールを呑みながら、その後焼酎を呑みながら。
あの頃の短歌集と、今日の短歌集が同じものなのか、今の僕にはもう分からない。