僕の中にキリストが出現した

イエス・キリストは初め、キリストではなくただのイエスだった。ガラリヤのイエス。大工の息子イエス。キリスト、とは「救世主」のことだ。ただのイエスが、いずれイエス・キリストとなった。

僕は昔、非常に気が短かった。チョットしたことでよくキレたものだ。それが今では大分気の長い人間となった。よっぽどのことでなければ、あるいは不条理や理不尽が長い時を掛けて鬱積しない限りは、まずキレることはない。25歳くらいからかな?友達がイライラしていても、僕にはそのことが何でもなくなった。ある年の大曲の花火の時も、僕を含めた三人で場所を取り、シートを広げていたのだが、そのシートを踏んでいく人々、人々、とんでもない数の人々。友達二人はかなりキレていたが、僕はまったく何とも思わずに、その踏んで行く足を黙って見つめていた。その時友達と自分自身を較べて「ああ、僕は変化したなぁ」と思ったものだった。
僕がこのようになったのには、遠藤周作の小説が関係しているように思う。あるいは関係していないかもしれない。ただその頃僕は、遠藤周作の本を読み漁っていた。遠藤周作と言えば、ご存じのとおりキリスト作家だ。母の影響からクリスチャンとなり、幼少の時洗礼も受け敬虔な信者と言えるが、けれども彼の小説は、ただそれだけではなかった。
例えばロッカーが「三島の本はよく読んでいる」とでも言えばカッコいいが、「遠藤の本を読むよ」と言えば、多分チョットダサい。太宰でも芥川でもカッコいいが、遠藤周作ではなんだか恰好がつかないんじゃないだろうか(実際遠藤ファンって聞いたことないね)。ただ僕は大好きだ。多分三島よりも、太宰よりも(いや、三島も好きだなぁ)。あと今の話に関係ないけどモームも好きなんだよねぇ、これもダサいか?。
まぁという分けで、僕は遠藤周作の本で少しだけキリスト教を知り、それでイライラしなくなったと思っているが、ただの偶然、その時少し大人になるタイミングだったのかもしれない。