詩とロックと君がいてくれるから大丈夫

ねじめ正一言わく、「詩を書くのは、小説を書くことの、十倍エネルギーを使う。原稿用紙一枚分の詩を書くのと、十枚分の小説を書くことに使うエネルギーは同じ」。はたしてそれは少し大袈裟な気もするが、枚数で表すならば多少なりとも当たっているかもしれない。もしひとつ言わせてもらうならば、詩を書くことは産み出す苦しみ方が違うかな、という感じ。

例えば映画を観るのと、小説を読むのでは明らかに消費エネルギーが違う。もちろん小説を読む方が、エネルギーを使う。小説を読むと書くとでは、これまた大分消費量が違ってくる(カロリーの話ではないですよ)。小説を書くことは、脳のマラソン、もっと正確に言えば脳のサブミッションかな。ねちねちと筋肉と心肺機能を疲労させながら、一つの自己満足を満たして行く感じ。

面白い映画と、面白い小説の違いは満たされ方のような気がする。面白い映画は、僕の目の前でその映像が展開されるが、面白い小説は僕の内部でその映像が展開される。外部と内部の違いで、明らかに満たされ方が違うと思う。しかも小説の映像は、僕の頭の中で展開される分けではない。ではどこか?。その映像は僕の胸のあたりで展開される。確実に胸で・・・・。

僕は詩を書き、小説を読む。映画を観ては、歌を唄う。詩を読み、小説を書いて、歌を唄っては、映画のセリフを考えたりする。
けれども、すべての基本は「詩」である。これは辻仁成も言っている事だ。

僕の中では君でさえも、まるで一遍の詩であるかのようだ。